自己肯定感 この言葉をよく聞くようになったのはいつからだろうか?
出産してから、ものすごく目に耳にするようになった。
子を持ったからだろう。
子育ての雑誌にしても、自己啓発本にしても、なーにを見ても目に飛び込んでくるのは
”自己肯定感”。
今になり、改めてこの言葉を調べてみると、なんとなくぼんやりとでしか受け止めていなかったことに気づく。
しかし、どうやらこの言葉自体の定義がぼやっとしているみたいだ。
ぼんやりとした定義のくせに、インパクトが強い。
私にはとても強かった。
”それさえ手に入れたら、光り輝く人生が待っているのだ!”
”逆に、それがない人生には光が当たらないんだよ”
と囁かれているようだった。
そして厄介なことに、キーワードは ”幼少期” ”すべてを受け止めてくれる親” ”愛情” ときたもんだ。
親追い詰めるよね。
私は追い詰められた。
子にはなんとしても”自己肯定感”を持ってもらいたい。
自分が自分を肯定していないから、そうはなってほしくなくて。
”自己肯定感”を育てたいと思いながら、いろんな事をさせては子を怒る日々。
自信を持ってもらいたいのに、出来ないことを指摘する日々。
あぁ、私は毒親だ。そう思う日々。
本末転倒も甚だしい。
そんな風になったのは、”自己肯定感”に追い詰められたからだけではない。
そもそも、それに追い詰められるような要素が私にはあったのだ。
自分自身の問題。夫との関係性。おかしな義理家族。様々な事が絡み合い、確実に重量オーバーなプレッシャーに今にも押し潰されそうだった。
いや、どこか壊れていたに違いない。
だからこそ、息子には輝いて欲しかった。輝く自分を手に入れて欲しかった。
一番嫌な、最低な呪い。”あなたの為に”
そんな息子も14歳になった。
娘も10歳になった。
夫とも、息子とも様々な事があった。
もう私は消えた方がいいんじゃないか、消えてしまいたい。そう思う日もあった。
必死の年月はあっという間に過ぎた。
気づけば息子の身長は私を大きく上回り、彼は大きく成長していた。
私は一つ一つ、素直な気持ちとともに傷つけてきた事を詫びた。
今となっては、馬鹿らしいとさえ思う ”自己肯定感” という言葉。
”自己肯定感”疲れを起こしている人も多いんじゃないだろうか。
自己肯定感を高める方法とタイトルをつければ、記事はよく読まれ書籍はよく売れるのだろう。
しかし重要なのは、それが目的となってはいけない という事だと思う。
本来それは生まれながらにして皆持っているのだ。
肯定しても否定してもいい。波の様にそれを繰り返しながら、人間性を育んでいくのだろう。
子であっても他者は他者。
他者の地形や波模様を勝手に動かそうなんてしてはいけない。
出来ると思っちゃいけない。
巷ではいろんな言葉が渦巻いている。
どれかに当てはめようとせず、そんな色眼鏡を外して見る子ども達は、
とびきり素敵だった。
改めて子ども達には、感謝しかない。教えられることばかり。