TAISEI NO MADO

アラフォー主婦 あの手この手

苦しみの自己肯定感

自己肯定感  この言葉をよく聞くようになったのはいつからだろうか?

出産してから、ものすごく目に耳にするようになった。

子を持ったからだろう。

 

子育ての雑誌にしても、自己啓発本にしても、なーにを見ても目に飛び込んでくるのは

”自己肯定感”。  

 

今になり、改めてこの言葉を調べてみると、なんとなくぼんやりとでしか受け止めていなかったことに気づく。

しかし、どうやらこの言葉自体の定義がぼやっとしているみたいだ。

 

ぼんやりとした定義のくせに、インパクトが強い。

私にはとても強かった。

 

”それさえ手に入れたら、光り輝く人生が待っているのだ!”

”逆に、それがない人生には光が当たらないんだよ”

と囁かれているようだった。

 

 

そして厄介なことに、キーワードは ”幼少期” ”すべてを受け止めてくれる親” ”愛情”  ときたもんだ。

 

親追い詰めるよね。

私は追い詰められた。

 

子にはなんとしても”自己肯定感”を持ってもらいたい。

自分が自分を肯定していないから、そうはなってほしくなくて。

 

”自己肯定感”を育てたいと思いながら、いろんな事をさせては子を怒る日々。

自信を持ってもらいたいのに、出来ないことを指摘する日々。

あぁ、私は毒親だ。そう思う日々。

 

本末転倒も甚だしい。

 

そんな風になったのは、”自己肯定感”に追い詰められたからだけではない。

そもそも、それに追い詰められるような要素が私にはあったのだ。

自分自身の問題。夫との関係性。おかしな義理家族。様々な事が絡み合い、確実に重量オーバーなプレッシャーに今にも押し潰されそうだった。

いや、どこか壊れていたに違いない。

 

だからこそ、息子には輝いて欲しかった。輝く自分を手に入れて欲しかった。

一番嫌な、最低な呪い。”あなたの為に”

 

そんな息子も14歳になった。

娘も10歳になった。

 

夫とも、息子とも様々な事があった。

もう私は消えた方がいいんじゃないか、消えてしまいたい。そう思う日もあった。

必死の年月はあっという間に過ぎた。

 

気づけば息子の身長は私を大きく上回り、彼は大きく成長していた。

 

私は一つ一つ、素直な気持ちとともに傷つけてきた事を詫びた。

 

今となっては、馬鹿らしいとさえ思う ”自己肯定感” という言葉。

”自己肯定感”疲れを起こしている人も多いんじゃないだろうか。

 

自己肯定感を高める方法とタイトルをつければ、記事はよく読まれ書籍はよく売れるのだろう。

しかし重要なのは、それが目的となってはいけない という事だと思う。

本来それは生まれながらにして皆持っているのだ。

 

肯定しても否定してもいい。波の様にそれを繰り返しながら、人間性を育んでいくのだろう。

子であっても他者は他者。

他者の地形や波模様を勝手に動かそうなんてしてはいけない。

出来ると思っちゃいけない。

 

巷ではいろんな言葉が渦巻いている。

 

どれかに当てはめようとせず、そんな色眼鏡を外して見る子ども達は、

とびきり素敵だった。

 

改めて子ども達には、感謝しかない。教えられることばかり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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