小学5年生ぐらいからだろうか、私が世の中に対しての怒りを持ち出したのは。
まぁよく怒っていた。20代前半までは本当によく怒っていた。
何に怒っていたのか明確な記憶はあまりないが、はっきりと記憶しているものがある。
誕生日おめでとう!
このフレーズ。 いや、この言葉に怒るとは何と尖った感性を持っていたのだろう。
違和感を感じ始めたのは5年生ぐらい。
友人の誕生日会も呼んでもらっていたし、自分の誕生日会もした。良き思い出。
しかし、いつも違和感を感じていた。
誕生日ってめでたいのか?? と。
中・高校生となるにつれ自分の関係者が増えてくると、「誕生日おめでとう!」だらけ。
私の違和感は濃度を増していき、
「誕生日おめでとう!」「ありがとう!」は定型文じゃないか。となった。
誕生日は祝わなければいけないし、生まれてきてさほど嬉しいと言う訳でもないのに
嬉しがらなければいけない。
それっておかしくない? と怒っていた訳である。
年齢を重ねるにつれ、怒りは治まっていくが「誕生日おめでとう!」を言う時も
言われる時も気恥ずかしさを伴っていた。
私は「メリークリスマス!」も恥ずかしい。
それは出産後もやはりその通りで、子ども達を祝う時でさえ違和感を持ったまま。
さすがに自分の人間性を疑問に思うが、どうしても何年経っても違和感は拭えない。
しかしその時はきた。
ある歳の子の誕生日、私は本気で考えた。なぜこんなにも違和感を感じるのだろうかと。幼少期からの自分を思い返したり、出産からの経験を思い返したり。いや、まず出産を経験させてくれたのは子どもじゃないか……… とグルグルグルグル思考回路を全開にし一日中考えた。
そして見つかった。
あぁ、やっと見つかった。
誕生日は生まれてきてくれてありがとう と感謝する日なんだ。
生まれてきてくれて、存在してくれてありがとう と。
胸があったかく軽くなった。
もちろんこれは、私の中の事。
純粋な「誕生日おめでとう」に勝るものはないと思う。
ただ私はこれに気づき納得し、初めて気恥ずかしさを持たずに「おめでとう」が言えるようになった。
祝えるようになったのだ。
なんとまぁ長くかかったこと。
しかし他者に対し、存在してくれてありがとう と思えると世界の色が変わってきたのだ。
色が変わり、私は生きるのが少し楽しくなった。
生まれてきて良かったと感じれるようになったのだ。
身をもって私にそれを教えてくれた子ども達に感謝するとともに
私の側にいてくれる人達に
ありがとう
と伝えたかったのです( ´∀` )