TAISEI NO MADO

アラフォー主婦 あの手この手

誕生日おめでとう

小学5年生ぐらいからだろうか、私が世の中に対しての怒りを持ち出したのは。

まぁよく怒っていた。20代前半までは本当によく怒っていた。

何に怒っていたのか明確な記憶はあまりないが、はっきりと記憶しているものがある。

 

誕生日おめでとう!  

 

このフレーズ。 いや、この言葉に怒るとは何と尖った感性を持っていたのだろう。

違和感を感じ始めたのは5年生ぐらい。

友人の誕生日会も呼んでもらっていたし、自分の誕生日会もした。良き思い出。

しかし、いつも違和感を感じていた。

 

誕生日ってめでたいのか?? と。

 

中・高校生となるにつれ自分の関係者が増えてくると、「誕生日おめでとう!」だらけ。

私の違和感は濃度を増していき、

「誕生日おめでとう!」「ありがとう!」は定型文じゃないか。となった。

誕生日は祝わなければいけないし、生まれてきてさほど嬉しいと言う訳でもないのに

嬉しがらなければいけない。

それっておかしくない?  と怒っていた訳である。

 

年齢を重ねるにつれ、怒りは治まっていくが「誕生日おめでとう!」を言う時も

言われる時も気恥ずかしさを伴っていた。

私は「メリークリスマス!」も恥ずかしい。

 

それは出産後もやはりその通りで、子ども達を祝う時でさえ違和感を持ったまま。

さすがに自分の人間性を疑問に思うが、どうしても何年経っても違和感は拭えない。

 

しかしその時はきた。

ある歳の子の誕生日、私は本気で考えた。なぜこんなにも違和感を感じるのだろうかと。幼少期からの自分を思い返したり、出産からの経験を思い返したり。いや、まず出産を経験させてくれたのは子どもじゃないか……… とグルグルグルグル思考回路を全開にし一日中考えた。

 

そして見つかった。

あぁ、やっと見つかった。

誕生日は生まれてきてくれてありがとう と感謝する日なんだ。

生まれてきてくれて、存在してくれてありがとう と。

胸があったかく軽くなった。

 

もちろんこれは、私の中の事。

純粋な「誕生日おめでとう」に勝るものはないと思う。

ただ私はこれに気づき納得し、初めて気恥ずかしさを持たずに「おめでとう」が言えるようになった。

祝えるようになったのだ。

 

なんとまぁ長くかかったこと。

しかし他者に対し、存在してくれてありがとう と思えると世界の色が変わってきたのだ。

色が変わり、私は生きるのが少し楽しくなった。

生まれてきて良かったと感じれるようになったのだ。

 

身をもって私にそれを教えてくれた子ども達に感謝するとともに

私の側にいてくれる人達に

 

ありがとう

 

と伝えたかったのです( ´∀` )